And it seems to me you lived your life

      like a candle in the wind:

never fading with the sunset

     when the rain set in.

And your footsteps will always fall here,

     along England's greenest hills;

your candle's burned out long before

    your legend ever will.

 天使


ぼくには君の人生が

風の中のろうそくのように思える

夕暮れの雨にうたれても

決して消えることのない一本のろうそく

君の足跡は緑濃いイギリスの丘に

永遠に残るだろう

ろうそくが燃え尽きてしまっても

伝説が消えることはない

 

 

先日TVで元ダイアナ妃がボイストレーナーの男性の向けるカメラの前で赤裸々に自分を語る姿をみて

驚くとともに「人間」としてのダイアナ、王妃でもなく、金持ちの女性でもなく、一人の女性、として

見ることができました。ダイアナの年譜を追っていずれ彼女を掘り下げてみたいと思います。

「誰にも理解されなかった。両親は私を抱きしめてくれなかった」

受けるべき愛を受けることのできない人はたくさんいるでしょう。

たとえ巨万の富を得ても、名誉を得ても「魂の乾き」を癒すのは

「自分自身」しかありません。

 

ダイアナの言葉より

 婚約時記者よりインタビュー。「二人は愛し合ってますか?」
 
  ダイアナ 「もちろんよ」
  チャールズ 「愛し合っているって、どういう意味で?」
 
ダイアナ  「なぜあの女(カミラ)に会いに行くの?」 
チャールズ 「皇太子というものは代々愛人がいるものだ」


泣きながらエリザベス皇太后に夫チャールズのことを相談したとき

皇太后「チャールズはどうしようもないからねえ、、」


元ダイアナ妃年譜


1961 7月1日午後19時54分、ダイアナ.フランシス。オルソープ子爵(スペンサー家は、十五世<br />
ヨーロッパでも有数の羊商として財を築き、国王チャールズ一世から伯爵の地位を与えられ た)の3女としてノーフォーク州サンドリンガルに生まれる。姉セーラ、ジェーン、弟チャールズ。 

1968 7歳 両親が別居。翌年離婚。養育権をめぐって両親は激しく対立するが、結果的に経済的有利さで父親に引き取られる。

1974 13歳 祖父が死去。ロンドン郊外のオルソープ城に移住。

1976 15歳 父が再婚。ダイアナは徹底して継母に反抗。成人してから義母を階段から突き落としたり、家の中にある義母の洋服を外へ放り出すというようなことをしているが後年和解している。

1977 16歳 6月 全寮制学校を卒業。スイスの花嫁学校で寄宿生活に入るるが、6週間で帰国。
      11月 姉の紹介でチャールズ皇太子と運命の出会い。

1978 17歳 次姉ジェーンが結婚。
1979 18歳 1月 女王主催の狩猟パーティに招かれ、皇太子に再会。
   11月 ロンドン市内の幼稚園に保母として週3日働く。
   この頃曾祖母の遺産で購入したロンドン市内のマンションで友人と共同生活を始める。
   このころチャールズはスコットランドの地主の娘であるアナ・ウォリスに夢中だった。
   チャールズの相談相手だったおじのマウントバッテン卿の葬儀で打ちひしがれているチャールズに   ダイアナは「あなたには誰かが必要なのよ」と声をかける。

1980 19歳 6月ごろ 皇太子妃候補に。ダイアナを皇太子妃に勧めたのは祖母とカミラであった。

1981 19歳 2月2日、ウィンザー城で、皇太子はダイアナにプロポーズ。
      2月24日 皇太子との婚約を発表。
   20歳 7月29日 皇太子とセント・ポール寺院で挙式。すでにカミラとの不倫を知っていたダイアナは結婚式を「いけにえの羊のような気持ち」と表現している。挙式でバージンロードを父親に付き添われて歩きながら、カミラ婦人の姿を探していたのである。
   8月1日 ヨットで2週間の地中海ハネムーン旅行。
   11月 5日 おめでたを発表。

1982 2月 きじ撃ちの是非をめぐって、皇太子と大喧嘩。
   2月17日バハマ諸島で妊娠5ヶ月のビキニ姿を盗み撮りされる。
   20歳 6月21日 午後9時30分、ロンドンで長男ウィリアム王子を出産。翌日には退院し、国民を驚か  せる。
   21歳 9月18日 フランス、モナコ訪問。グレース王妃の葬儀に参加。

1984 22歳 1月10日 新ダイアナカットが報道される。。
   23歳   9月15日 午後4時20分、次男ヘンリー王子出産。
       11月    ヘアスタイルを変えるが不評。
1985 23歳 2月26日 皇太子の元侍従がダイアナ妃と女王、アン王女の不仲を暴露。
1986 24歳 5月8日~13日 初の日本訪問。この年チャールズはカミラとの不倫を復活。
1987 25歳4月9日 ロンドンの病院でエイズ患者たちと握手。
   26歳7月   英大衆紙が不仲による離婚説を一斉に報道。
   10月31日 皇太子の友人の結婚式に欠席。
1989 27歳2月1日 初の単独訪米。
1990 29歳11月10日 天皇即位の礼に参列のため、負債で2度目の来日。
1991 29歳3月   乗馬の先生だった、ジェームズ・ヒューイット元近衛将校との交際が報じられる。
   4月16日 英大衆紙「サン」が夫妻の「別居状態」をスクープ。

1992 30歳 3月29日 父、スペンサー伯爵死去。
    6月5日 英大衆紙「過去5回、自殺未遂騒動を起こしていた」と暴露報道。
    6月16日 暴露本「ダイアナ妃の真実」が発売され、皇太子とカミラ・パーカーボウルズ夫人との不倫が原因で、5度の    自殺未遂をはかったこと、拒食症に陥っていたことが発覚。
    7月1日 31歳の誕生日、パーティーも祝福もなし。
    31歳 8月24日ダイアナ妃と愛人との電話の盗聴テープが出回る。
   11月6日 韓国訪問に同行した記者団が夫妻がそっぽを向く写真を掲載。
   12月9日 メージャー首相が、皇太子夫妻の別居を発表。
スコットランドの地主の娘であるアナ・ウォリスに夢中だった
1993 31歳 3月3日 ネパール公式訪問。
   3月27日 息子たちと出かけたスキー場で、取材協定を破ったカメラマンに激怒。
   32歳 11月7日 フィットネスクラブでレオタード姿が盗撮され、これを受けて英高等
        法務院が大衆紙に「これ以上写真を掲載してはならない」と命令。
   11月9日 フィットネスクラブと「デーリー・ミラー」紙を告訴。
   12月3日 公務からの一時撤退発表。

1994 32歳 5月3日 スペインでのバカンス中にトップレス姿を写真に取られる。
   5月18日 一年間の衣装や美容、化粧代が16万ポンド(約2500万円)との報道。
   6月29日 皇太子が英テレビのドキュメンタリーでカミラ夫人との不倫告白
   33歳 10月3日 アナ・パステルナーク著「プリンセス・イン・ラブ」で

    ヒューイット元近衛将校と愛人関係にあったことが発覚。
1995 33歳 1月10日皇太子の愛人、カミラ夫人の離婚発表。
     2月6日 阪神大震災の直後、単身で3度目の来日。
   34歳 8月14日 ラグビー選手ウィル・カーリング氏との不倫が発覚。
   11月20日 英BBCとの初の単独会見に応じ、ヒューイット元近衛将校との
        不倫を認める。
   12月20日 エリザベス女王が夫妻に対し、早期離婚を勧告する手紙を送付
<br />
1996 1月   弁護士と離婚条件について協議を開始。
   2月28日 離婚同意の声明を正式に発表。
   7月12日 慰謝料は推定1700万ポンド (約29億円 )、「ハー・ロイヤル・
        ハーネス」 (妃殿下)の称号剥奪などの条件で、離婚に正式合意。
        務めていた約100の慈善団体の会長や顧問職を辞任。
   35歳 8月28日 離婚成立。慰謝料は推定1700万ポンド(約29億円)

1997 35歳 1月13日 赤十字特使としてアンゴラを訪問し、対人地雷の全面禁止を訴える。
        3月9日 ウィリアム王子の堅信式に出席。
          6月25日 エイズ基金のためニューヨークでドレスのオークション。
   36歳  7月15日 エジプト人富豪アルファイド一家と南仏で休暇を過ごし、長男で映画
         プロデューサーのドディ氏と意気投合。
        7月31日 新恋人ドディアルファイド氏とコルシカ島へ。    
        8月7日 ドディ・アルファイド氏と地中海の島でバカンスを過ごしたと、

             英大衆紙が一斉に報   道。大富豪との恋はアメリカではジャッキー婦人と比較されている。
   8月8日 地雷撲滅キャンペーンの一還でボスニア訪問。
   8月14日 アルファイド氏の元婚約者の米国人モデルが婚約不履行で氏を告訴。
   8月22日 アルファイド氏と地中海に3度目の休暇に出かける。<br />
   8月27日仏「ルモンド」紙のインタビューに答え、「残忍な英国マスコミ」を痛烈に批判。
   8月30日 午後アルファイド氏とショッピングにため、フランス・パリに到着。
         夜、高級ホテル「リッツ」で夕食。

   8月31日
    午前0時すぎ(現地時間 ) 

   黒のベンツでリッツを出発、カメラマンが追跡 

   (この車は本来乗るはずだった車が故障したので急遽乗ることになった)
    午前0時35分-40分 セーヌ川沿いの自動車道路内のトンネルで

    ベンツが中央分離帯の柱に激突し、反動で右壁に衝突。アルファイド氏と運転手は即死状態。
    午前0時45分最初の救急車が現場到着。

   その場で元妃に約1時間にわたる蘇生処置の後、病院へ搬送。
    午前2時ごろ開胸手術を行う一方、心臓マッサージを続ける。
    午前4時死亡確認。


   ダイアナ最後の言葉は「leave me alone」(そっとしといて)
  
    同日英「デーリー・メール」紙が、ダイアナ元妃が死の6時間前に11月には一切の公的活動から引  退する決意を電話で同紙王室担当記者に語っていたことを明らかに。


    午後7時皇太子と2人の姉とともに空軍機で遺体が英国に到着


 9月6日 ロンドンのウエストミンスター寺院で葬儀。